【神戸の名門】大道学園について語るスレ
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御影の白亜の校舎・大道学園について語れ。
全盛期には、上位200番までが東大か、京大。
上位400番までが阪大、神大、早慶に合格したものでした。
この受験生の厚みは驚異的といって過言ではないと思います。
閑静な住宅街の中にそびえる品のある予備校でしたね。
柴田一夫先生…すばらしい英語の先生でした。
あれは、平成元年の夏のこと、
三宮のそごうの地下でばったり英作文のY先生に出会ったので、
「柴田先生はお元気でいらっしゃいますか?」と尋ねました。
Y先生は「柴田先生はもうこの世にはいない」
奥様をなくされてから、柴田先生は気を落とされ、体調を崩されたということです。
とても悲しい思い出です。
私がお世話になったのは昭和61年度なので、その後間もなく亡くなったんですね。
「MUSTS」丸暗記しました。
私が在籍したクラスは、ろくに授業も聞かないくせにアンケートにワガママばかり書いて・・・
柴田先生は年度途中、授業を降ろされました。今思えば申し訳ない思いでいっぱいです。
通常の熟語集に比べて、内容が濃く、重厚な例文だったように思います。
今でも、使い込んでぼろぼろになったMUSTS、大切に保管しています。
英文解釈の授業で、テキストの講義に入る前に、
柴田先生は「MUSTS、MUSTS出して!!」
とおしゃって、MUSTSの解説をされてから、テキストの講義をされていました。
懐かしいです。受験生時代を思い出しました。
ところで、宇津木先生は今何をされているかご存知ですか?
当時、神戸大学の大学院生だったと思います。
宇津木先生に習っていたのですか。するとあなたは理Tか理Uか医系クラスだったのですね。
宇津木先生、今どうしていらっしゃるのでしょうか。
当時の大道学園は、公立高校の定年退職者の再就職先や、神戸大学の関係者の
バイト先であったように思います。
英語の吉田先生や国語の松原先生は公立高校の定年退職者だったと思います。
ところで、本科には化学の小林先生や、英語の毛利先生など、その道の重鎮が
出講されていたと思うのですが、授業はいかがでしたか?
「私は、諸君のおじいさんよりもっと、相当に年をとっています」
と、よくおっしゃっていました。
元灘高の先生で、昭和の初期から教職についておられたそうです。
「毛利良雄の大学受験シリーズ」の著書があり、授業でも使っておられましたが、
授業では独自のプリントを配布しておられました。
また、時間があるときは「難問テスト」を実施されていました。
毛利先生は
「私の講師料など、わずかなお金です。しかし私は大道英昌校長には大きな恩がある。
恩に報いるため、私は今でも教壇に立つのだ」
とおっしゃっておられました。
とても立派な先生でした。
講師室へ向かっていた、杖をついたおじいさん(失礼!)が毛利先生だったんですね。
受付の方もすばらしかったですね。全生徒の顔と名前を覚えていらっしゃいましたね。
大道学園が大学受験予備校をやめた原因は、やはり大手予備校の神戸進出が原因でしょうか。
私としては「公務員受験予備校」になってしまったことは残念です。
杖はついておられなかったので、そのおじいさんが毛利先生だったかどうかは
わかりません(もしかしたら、晩年、杖をついていたのかもしれないけど)。
私のころ、杖をついておられたのは、名前は知らないのですが、日本史の先生でした。
事務の方々は本当に親切なすばらしい方たちでした。
駿台が大阪に来たころから、大道の黄金時代にかげりが出たように思います。
灘高の上位層が、大道に来なくなりました。
大学受験予備校をやめたのは、やはり少子化の影響だと思います。
平成12年に、新規受講生募集を停止しましたね。
この年は東京の研数学館が予備校をやめた年でもあるので、
有名老舗予備校の転換期だったのだと思います。
入学の資格に「喫煙の習慣のないもの」と明記されていたと思います。
また、「ノースリーブを禁止する。」、「廊下につばを吐いた生徒がいる。
今後発見次第、退学処分にする。」等の張り紙が記憶に残っています。
授業のはじめと終わりに「起立」「礼」がありました。
黒板を写すのに夢中になって、授業終了の「礼」に間に合わず、
書き終わってからようやく「礼」をする生徒が何人かいました。
数学の和田実先生は、後から「礼」をする生徒ひとりひとりに対しても、
きちんと「礼」をしておられました。
生徒に対して規律を求める予備校でしたが、先生も礼節を守っておられました。
そうなんですか。別科ではしていませんでした。
一度、夏期講習が本科生と合同で行われましたが、そのときも「起立」「礼」
はなかったです。時期が違うのかな・・・。
別科の生徒は、私語は絶えなかったのですが、講師を人間的にも学問的にも信頼していたと思います。
派手なパフォーマンスを売りにする予備校とは質がまったく違ったと思います。
遅刻にも厳しかったですね。
遅刻者は一定時刻にまとめて職員に誘導されて、ベランダ経由で教室に入室していました。
時期が違うのと、本科と現役生コースでは違ったのかもしれません。
ただし、柴田先生が夏休みに「東大英語の要約問題の解き方」の特別授業をして下さいました。
私は東大希望ではありませんでしたが、柴田先生の授業が好きだったので、
せっかくだから受講しました。
とくに受講料は必要ありませんでした。
現役生や外部性は募集せず、いつものクラスのメンバーだけでした。
私が大学へ進学したころに、大道の夏期講習がはじまったように記憶します。
どんな夏期講習だったのですか?
確か6月の下旬頃夏期講習を実施するとの案内をもらいました。
受講料は1科目二千円程度だったと思います。
内部生だけで実施されました。
本科生と合同でしたが、別科生はあまり申し込まなかったです。
柴田先生は別科でも平日に無料で特別ゼミをされていました。
私も参加しました。
柴田先生の魅力って何なんでしょうね?
生徒と会話することはほとんどなくて、同じ雑談を繰り返したり、
質問しても耳が遠くて・・・。
でも不思議に惹かれるんですよね。私も大好きでした。
補聴器をしておられました。
戦前は満州にいて、馬に乗っておられたそうです。
他の先生方も柴田先生のことを、とても尊敬しておられました。
ある数学の先生は
「柴田先生はすばらしい。人柄はいいし、能力はあるし」とおっしゃっていました。
柴田先生には英文解釈を習っていたのですが、様々な角度から解説されるので、
単語・熟語・構文すべてを学ぶことができました。
大道の本科では、朝、登校すると、先生が毎日交代で校門で生徒を迎えるという習慣がありました。
柴田先生は、日差しを避けるため、
いつも女性物のピンク色の日傘をさして、私たちに「おはよう」とおっしゃっていました。
ほほえましい光景ですね。うらやましいです。
私は公立高校出身なのですが、私が入学する前までは「MUSTS」を英語の副教材として使っていたそうです。
ある日職員室で教頭が「私は柴田先生とは30年付き合っていて、
いまでも一緒に飲みに行く仲だ」って誇らしげにしゃべっていたのを覚えています。
私が教わっていた頃は体力的に限界だったのかもしれませんね。
夜の9時過ぎまで講義されるなんてすごいことですよね。
今は公務員予備校をやっているようですが、カルチャーセンターも続いているのですか?
http://www.ohmichi.ac.jp/culturesalon/
私は昭和48年卒です。ちょうど大道の理事の依頼があった直後に予備校を廃校することになったのです。
私らの頃は、東大・阪大クラスが別館で、京大・神大クラスと文系クラスが本館にありました。本館の食堂のカレーがなつかしいです。
理事就任の要請を受けられたのですか?
昭和48年というと大道の黄金時代に在学されたのですね。
予備校の運営はもういきづまっていたのですか?
現在はカルチャーセンターと公務員予備校の二本立てで経営しているのですね。
食堂のカレー、評判でしたね。カレー以外のメニュー、印象に残っていません。
「ザ・予備校」にも大道のカレーは紹介されていたように記憶します。
私にそろそろ代わってくれと言いまして、事務の大御所だったIさんからも
要請されて、就任を受諾しました。ところが、待てど暮らせど連絡がなく
半年以上経ってからIさんから詫び状が届きました。それで初めて行き詰っ
ていたのかと知った次第です。
大道学園という名前は創設者の大道先生が「大学」と略されるのを欲して
命名されたんですよね。今も忘れられないのは、受験に失敗して失意のどん
底にあった私の耳に飛び込んできた故大道先生の入学式の訓示の言葉です。
「君たちは来年大学に通るかどうか心配しているだろう。しかし、そんな
ものは一年間努力すれば通るに決まっている。通るかどうかでくよくよ悩むな。
何番で通るか、それを気にしなさい。」
この言葉は私にとってコペルニクス的転回となりました。
大道先生のカリスマ性はすごかったですね。
私のころは創設者・大道英昌先生はすでに鬼籍に入っておられ、ご子息の英治先生が校長でした。
しかし、先生方は折に触れて創設者の名をあげられ、
「先代には本当にお世話になった。自分は大道を離れるわけにはいかない」
と口々におっしゃったものです。
職員室には先代の御真影と校訓の「努力」の額がかかっていました。
事務のIさんはとても温かく、厳しく、立派な方でした。
窓口でテストを返してもらうとき、激励の言葉をいただいたものです。
今は二代目も校長を退かれ、当時副校長だったU先生が校長をされているのですね。
Iさんは今でも事務局にいらっしゃるのでしょうか。
大道は新規事業はうまく軌道に乗ったのでしょうか。
毎年ワンちゃんの写真の入った年賀状をいただいています。
先日、元理事のF君と電話で話したのですが、我々は大道学園には大恩がある、
大道の今後の成り行きについては陰ながら応援していると言っていました。
我々の頃はまだ国立一期校、二期校の時代でしたが、共通一次試験が始まった
頃から全国データを持つ大手予備校のシステム重視型教育に受験生が流れた
のでしょう。しかし、大道の根性論的やり方は決して時代遅れでもなんでも
なく、最後の最後にはその教育が意味を持ってくるとF君は語っておりました。
予備校の時の友人は、辛い時代を一緒に戦った戦友みたいなものですね。
それから、阪急御影駅の前にあった喫茶店でよくたむろしたものですが、
あれは今でもあるのでしょうか?
大道の栄光に翳りが見えたのは、創設者が亡くなった直後、
昭和59〜60年くらいからではなかったかと思います。
このころから、東大・京大に行ける層が薄くなったように感じます。
また、優秀な英作文の先生を河合塾に引き抜かれたのもこのころだと思います。
大道の晩年、ホームページを見たとき、
合格実績を前年度ではなく、過去にさかのぼって累積で出していました。
「ああ、もう過去の栄光しかなくなったのか、もう幕が下りるのか」と悲しくなったものです。
喫茶店、行ったことないのです。ごめんなさい。
数学の確か、山岡(石岡?)先生でしたか。
赤いフォルクスワーゲンで送ってもらってきていましたね。
たしか柴田先生の書かれたものでしたよね。
数学では白石先生に大変お世話になりました。
元軍人で、背筋を伸ばした矍鑠とした先生でした。
当てられて答案を黒板に書くのですが、1学期のはじめごろは「こういう書き方は論理的でないね」と注意されたものでした。
「与えられた正解を理解するのはたやすい。難しいのはその正解をどうやって見つけ出すかだ」
という先生の言葉は、今でも印象に残っています。
ありましたよね。
あと、数学の石岡先生は昭和47年頃、「ジャネット・リンは可愛いのう」
と言いながら、汗を拭き拭き講義をされていました。
現国の垣田先生、実は甲南女子の教授さんでした。卒業後押部谷のご自宅
まで挨拶に伺った覚えがあります。
「ザ予備校」でも大道学園のカレーが紹介されていたと思います。
やったりした記憶があります。校舎から離れたところにテニスコートもあり、プレーしたの
も思い出です。
「こいつら何で大学落ちたの?」って感じの、優秀で個性的なメンバーばかりでした。
今から思えば、楽しい「虎の穴」みたいなところでした。
俺はそのときの教え子なんですが、宇津木先生が大道学園にいたときはどのような先生
だったのですか???
理系の生徒たちが先生の授業をさぼって食堂で遊んでいたので、宇津木先生は怒って、生徒たちに拳骨を食らわせてまわり、
「おまえら、俺の授業に出ろ!」とお叱りになっていました。
若さあふれる熱血先生という感じでした。
(現役時代)
英語ー柴田一夫先生 無論[MUSTS」の丸暗記、「NewArtOfEnglishComposition」も使った。
数学ー宇津木博先生、和田実先生
宇津木先生は東京理科大学を卒業され、神戸大大学院に在籍されていました。
その関係で夜間しか教えられず、現役組の教壇に経ってられた。
いまはあるし学の教師ですか?友人の結婚式でお会いしたのが10年以上前ですが。
和田実先生は甲南高校を退官後に本校に。つい最近、95歳くらいで亡くなられたらしい。
もう一人、宇津木先生の院の同級生の方がおられました。(名前が思い出せない)
(浪人時代)
英語ー柴田先生、毛利先生
数学ー石岡先生、白石先生、平松先生
物理ー北村先生
化学ー小林先生
数学の石岡先生は古くからこの大道にいらしゃった方。その昔は爆撃機に搭乗し、爆撃の角度を測定し教えていたとか。
白石先生は明石の高校退官後。平松先生は神戸大学の現役教官でらした。
北村、小林の両先生も神戸大学の現役教授でらっしゃった。ともに「チャート式」の著者だった。
今は医師として多忙な毎日ですが、
時々この狭い杏林の道で、
大道時代の懐かしい名前を見つける事があります。
×し学→私学、×経って→立って
>>1
「毎年東大合格100人以上」は誇張表現では?
30―50人くらいではなかったか?
京大は80-100人位であったが。
私の浪人クラスで、最終平均偏差値がビリから3番目の生徒でさえ、
慶応大学経済学部、名古屋大学理学部に合格しているのだから、
やはり優秀な予備校であったのでしょう。
確か奈良女子大学の先生だったと思う。
残念ながらお名前を忘れてしまったが、
テキストで読んだ「季札掛剣」は、今でも覚えている。
事務の一色さんも有名でしたね??
学び舎と呼ぶにふさわしい場所でした。
卒業の翌年、同期の友達と学園を訪れた際に
宇津木先生から閉校の話を聞き、ショックを受けました。
原因については少子化、大手予備校の進出、中学生科などに手を広げすぎた
ことなどをおっしゃっていました。
宇津木先生ともう一人、京大出身の斉藤先生に数学を習いました。
「この数列の美しさ、君たちわかるかな??」
という宇津木先生のお言葉や、
「この問題はもっと美しい解き方ができますね」
と、楽しげに別解を示される斉藤先生…
今でもはっきりと思い出します。
単なる受験数学のテクニックにとどまらず、
先生が持つ数学の美学や哲学があふれ出るような講義でした。
皆さんのお話によれば、
私程度のものが宇津木先生の講義を受けるなんて
身に余るような光栄だったのですね。
もっと努力して勉強するべきだったと今更ながら後悔します。
現在、某予備校の講師をしておりますが、みなさんの書き込みを読んで、
大道学園の真摯な教育を思い出し、懐かしくてたまらなくなりました。
数学の宇津木先生!!
この先生以上の数学の授業はないと、現在も思っています。
実は私は数学の和田実先生の最後の授業を受講しました。
先生は体調が悪く、脳の血管が今にも切れそうだということでした。
「もし切れれば、その瞬間、授業は終わり、私も終わりですわ」
そうおっしゃって、先生は授業を進められました。
教室の後ろに副校長と事務のIさんが待機し、もしもの場合に備えました。
副校長は「先生、もう降りてきてください。生徒諸君、いいでしょう?」
と呼びかけられましたが、先生は
「まだいけます。まだいけますよ」と副校長の制止を振り切って、最後まで授業をされました。
途中、教壇でふらふらされ、とてもはらはらしました。
命をかけて、自分の任務を続行する精神を、和田先生から学びました。
次の授業から数学は高田先生に交代となり、和田先生にお目にかかることはありませんでした。
しかし、その後も長生きされ、天寿をまっとうされたのですね。
和田先生、本当に有難うございました。
凄い先生がいらしたのですね。
さすがその名も高かった大道学園・・・。
傑出した先生が傑出した授業を行っていた時代の
塾というのはやっぱりちがいますね。
近畿予備校全盛時代の永井先生とかの授業も
凄かったのでしょうね。
生きた学び舎が成立しうるのは極めて稀なことなの
でしょうけれども、それを成り立たしめた
優れた教師とその授業を真剣に聴いた生徒たちの
姿がしのばれます。瞑目、合掌。
前述の通り、和田実先生は大道に来られる前は、甲南高校の先生でした。
戦時中から甲南で教鞭をとられ、戦地に赴く生徒に寄せ書きもされていたそうです。
何が何でも最期まで責任を全うする。
こういったお姿を学べた我々は幸せであったのでしょう。
そして白亜の校舎の大道に集えた我々は、
ある意味では幸せ者であったのかもしれません。
今の我々があるのは、あの1年があったからであり、
大道の厳粛な教育のおかげであります。
和田先生をはじめ、諸先生と大道学園には改めて感謝致します。
47
「y’のない点なし」という決まり文句が懐かしいです。
大道先生(初代)は「〜であることが必要十分」と、論理性を重視
した答案を強調されていたように思います。教室の後ろで少し私語
があったとき、そこをめがけてチョークを投げつけられたことが一
度ありました。ご高齢でありながらも衰えぬその気迫に我々は圧倒
されました。
小生のようなぼんくらでも大学に行けたのは大道学園のおかげで
す。
当時は大手の予備校というものがなくて、阪神間では大道が一番だったと思います。大阪からもずいぶん通っていたし。神戸の予備校では大道に
受からなかった人がYMCAとかコロンビアとかに流れていたと思います。
実家に帰ればMustsやEssentialsなど全部残っていますが、もう予備校はやっていないのですか、、、残念ですね。
昭和57年〜60年まで別科、本科ともにお世話になりました。柴田先生、宇津木先生、小林先生みな懐かしいです。
別科では有名進学校の生徒がうじゃうじゃいてレベルは高かったのですが、本科ではそれら進学校の生徒はあまりいませんでした。
宇津木先生の数学は、大きな字で板書していたのが印象的です。
「私は少し耳が遠い」といわれて、「耳が遠いとは・・
"I am hard of hearing." というのですよ」「喋るのが遅いのなら、
"slow of speech." とね」と。
20年以上前ですが、鮮明に覚えています。
私は皆さんのかなり前ですが、恐らく150〜200坪の個人の住宅の中に、
木造の2階建て1棟と平屋1棟があり、2階建ての1階は事務室、2階は東大
京大、阪大など受験用、平屋は神大受験と物理等の選択科目の教室でした。
門は、我々が住んでいるような普通の住宅のものでした。
入学試験があり、合格しなければ、受講生になれません。滑ったものでも関西
の有名私立に合格した人は多数いました。
事務所の人とも和気藹々な雰囲気で、授業も楽しく、大道先生の数学、加藤先
生の英語が中心でした。特に加藤先生の英語では、英文学に興味を持たせまし
た。大学と書いたバッチ、「箱根の山」のメロディーの校歌、御影公会堂での
文化祭など懐かしく思い出されます。
大道の席次を2倍すれば、駿台予備校の席次になると聞いたと思います。
駿台予備校への留学制度もあった筈です。
今の私のかみさんです。
かろうじて私が優秀だったのが救いです。
柴田先生のちっちゃなお姿が、今でも鮮明に残っています。
漢文の先生、名前も出てきませんが、先生のおかげか漢文ではほとんど点を
落とさなくなって感謝しました。
まあ、とにかく勉強、勉強の1年でした。
独自のワークブックを作成して、生徒たちに配布し、授業を進めておられました。
かの村上春樹のお父様だと、授業中に話されてました。
ご本人は甲陽学院で教鞭を取られていたそうです。
http://school.yubitoma.or.jp/school/28/2811/sch2811010.htm
文系クラスに在籍しておりました。
柴田先生が担任でした。
現役時代は数学が極端に苦手だったのですが、大道のお陰でかなりのリカバリーができました。
9月ごろ、文字ばかりの世界に飽きてきて、
たまたま友人から誘われた生物の授業を付き合いで受けました。
その内容がなかなか面白く、理系に変更しようと思いました。
クラスの変更はできなかったので、数学Vと生物は独学でしなくてはなりませんでした。
理科が生物、化学で受けられる学部は理学部と医学部しかなかったので
医学部受験しようとしました。
柴田先生から「やめとけ」と忠告されたのですが
「落ちたら、二期校の外大に行きます」と言って
公立医学部受験したところ、合格できました。
今、医者でおられるのは大道のお陰です。
一色のおばちゃんもゲンキかな?
予備校生のくせに変なプライドがあったな〜
でも不安だった
懐かしい・・・
化学:小林先生=神戸大学教授
そうそうたるメンバーだったんだね
こじんまりとした雰囲気で、場所も良く、ちょっと予備校というイメージではなかったですね。
上でも書かれていますが、事務の方が学生の顔と名前を全て覚えてらっしゃったのが印象に残ってます。
それと、確か古典(?)の先生が、村上春樹のお父さんだったように記憶しています。
古文の村上千秋先生ですね。
先生は甲陽高校の教頭をされた後、大道学園へ来られたと聞きました。
息子さんの村上春樹氏について級友が尋ねると、「息子にくらべて私はばかな親父ですわ」と謙遜して答えておられたのを覚えています。
一色のおばちゃんやな
でも今はおばあちゃんかな?
彼の数学は純粋な数学で、彼の哲学であろう「発想の自由さ」は数学との付き合いから自然に
身に付いたように思います。ただ、現象をモデル化したり記述したりする物理数学的な側面は
少ないので物足りなさを感じますが、ま、これは私の独り言に近いですね。
出し巻き定食が上手かったような気がするが・・・誰かしらん?